そのうち日記

ありきたりなことを書く

未来の話【今こそ過去のアニメ映画「老人Z」を観る】

あんまり映画見ないんですが、ここ最近見た中で面白かったのが老人Zです。

 

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この混沌っぷり!やはりいいですね〜

混沌としているようでスッキリまとまっているシナリオでした。

 

大友克洋江口寿史がタッグを組んで1991年に映画化したアニメーション映画です。

題名の通り、老人の問題が主になるのですが、そこに人工知能原子力など、現代にもつながるような要素をふんだんに盛り込んだ社会派映画。

これが1991年に映画化したってんだから驚きです。

 

2025年問題で沸いている昨今の医療福祉現場。

団塊の世代後期高齢者(75歳)に達する2025年、医療現場や介護現場での人員不足や、社会保障制度の負担が懸念されています。

そのような問題は、およそ30年前から予見されていたのでしょう。

高度経済成長の面影を残しつつ、日本がどんどん変わっていった昭和末期の空気感、新しい平成という元号・機械技術の進歩への期待も感じられました。

まさに変遷・混沌の時代だったのでしょうか。

未来から見たら今も混沌としてると思われるかもしれませんね。

だからこそ起こりうる「if」ストーリーといった感じです。

 

※ネタバレ注意※

 

物語は、看護学校に通う晴子を中心に進みます。

晴子がボランティアで介護する高沢老人が、介護現場での人員不足や緊急事態に対処できる高性能の看護ベッド「Z-001号機」のモニターに選ばれてしまいます。

実はこの介護ベッド、学習能力に加え、新しい人格を作り出してしまう第六世代コンピューターを内蔵。しかも動力は原子力

元々は軍事用に作るつもりのものを「介護ベッド」という一見「善良な」名目で開発した技術者・長谷川と、「福祉のために」それを推進した厚生省:寺田の悲しい食い違いによって、犠牲となっていく?高沢老人に同情せざるを得ません。

動力は?と聞かれ、核燃料です!と答え、安全性を懸念した質問にも、センサーが搭載されてるので安全です!という堂々とした返答。オオ〜!!と湧き上がる記者団。う〜ん(^_^;)

 

チューブだらけの高沢老人を見た晴子はショックを受けて必死に助けようとしますが、厚生省陣営に阻まれ断念。

しかし、コンピューターを介して高沢老人からSOSを受け取り、どうにかこうにか助けてあげようとする…。という展開です。

最初はやたら怨念じみた声晴子の名前を呼ぶ高沢老人病室に響く謎の声など、ホラーかと思いましたが、登場人物によってかなりコミカルになっていました。

戦争のような場面で「め〜し〜」「いま取り込み中ですからちょっと待っててくださいね」といった、ボケ老人と家族の間で繰り広げられるような、ある種「のほほん」な会話が繰り広げられたりと、シュールさもあり楽しく観れました。

 

意思を持ったかのように動いたり、色々なものを吸収して巨大化したりと、まるで「生物の模倣」のような機械。どんどんバケモノじみていきます。

AIが発展していく未来でもしかしたら起こりうるかもしれませんね!pepperくんが反逆するかもしれない!

でも大元は機械を作り出した人間、機械の人格の大元を生み出した人間、全て人間の手によるものなんですよね。

どんなに文明化した社会でも、便利でも、生物と機械の垣根は絶対にあるべきだと思います。

機械と細胞や神経が繋がれ、人間の意識を学習して人格を形成してしまう…。

倫理的・人道的な問題になると思います。これは天才外科医が怒るやつ。

 

晴子がチューブだらけの高沢老人にショックを受けていましたが、現代でも十分にある光景です。

最近では人道的にどうなんだ?と話題になったりしていますが…。

スパゲティ症候群と言い、生命維持のために機械で器官や生体機能をコントロールしています。

生きているのか?生かされているのか?

「人間らしく生きて欲しい」という晴子の願いも、ラストへ向かうにつれ強くなるような展開でした。

(現代の医療でああはなりませんけど…)

チューブに繋がれてまで生きることを否定しているわけではなく、本人の意思と乖離しているような状態が問題になっています。

とにかく長く生きて、世の中がどう変わるか出来るだけ知りたい!という人が望むのならば行われてもいい措置だと個人的には思います。

 

祖母がついこの間、手術のために一時そのような状態になっていましたが、身内だからかとてもショックでした。

祖母という「生きていて当たり前」だった人間が、少なからず機械の介助によって生きている。

祖母は、患者は、みんなは、自分は、どう生きて、どう死んでいきたいのだろう?

意思を伝えられるうちに自分の生き方を改めて考えようと思いました。

 

どう死ぬか?を考えたら生きることに一生懸命になれると聞きました。

「ピンピンコロリで迷惑かけずに死にたい」

そう願うのならば、自分で動ける時間がなるべく増えるように生きるべきだと思います。

「死ぬときに感謝されるような人生を送りたい」

そう願うのならば、いま生きているうちに感謝されるようなことをするべきだと思います。

医療者は、その手助けをするために存在しています。

医療も、人間の自然治癒力を助ける役目でしかないのです。

病気を治すのも勿論役目ですが、その人がその人らしく生きて死んでいけるよう、昨今では病気の予防に重点を置いていっています。

 

晴子の献身的な態勢は「自己犠牲」じみた側面もあります。

身を呈してでも他人を助ける精神は素晴らしいと思いますが、それでは医療が破綻してしまうので限度があります。

「助けたい」「生きて欲しい」といった一見「善の思考」が、当人にとっては「要らぬお世話」になりかねることもあるかもしれません。

スパゲティ症候群を忌避する患者や家族、医療者も勿論います。そうでない人も勿論います。

だから個々人で「自分の生き方・死に方」を明示する風潮が出てきました(リビングウィルと言います)

一番回避したいのは、本人も周りも死ぬときに「こんなはずじゃなかった」となることです。

しかし、この晴子現実的ではないほどのひたむきさが、一番の魅力であると思います。

実際、高沢老人晴子に助けを求めているわけですしね。

 

機械に繋がれた高沢老人が若い日の思い出を想起して「かぁちゃん(故人)と海を見たい」と願った場面で少し泣けてしまいました。

それまではよくある「ボケ老人」として描かれていたのですが、機械に繋がれてから老人の人生を描くのは憎いなぁと思いました。

そして、老人では手に入れられない身体能力を介護ベッドという名目で得た高沢老人が、その強い願いによって暴走していくのです。

最後に晴子高沢老人「海を見たい」という願いを叶えるため、「早く元気になって海を見に行こうね」と言ったところを、とても見習いたいと思いました。

高沢老人の願いを叶える方法には様々あると思いますが、どれがその人にとって一番の方法なのか?考えることが大切だと思います。

 

最初のほうで介護ベッド容認派から「やっぱ長く生きるもんじゃないね」「俺が老人なら若者の時間を奪っているようだ」というセリフがありました。

若者が言っていますが、老人の代弁の部分もあるのでしょうか。

長い人生の中の青春を想起する老人と、飲みに行ったり好きな子が居たり勢いで一夜の関係に走るような今まさに青春を謳歌する若者たち、対比として印象深かったです。

片思いの晴子のために奔走する若者は、海を見にいきたい老人の願いの強さに振り回され、泣かされたり逃げようとしたり…。

それぞれに一生懸命なのですが、思いの重みが明らかに違うのは、人生経験のなせる技なのでしょうか。

 

とは言え、高沢老人以外にも老人がたくさん出てきます。

高沢老人かわいそうな(本当は虫唾が走るほど嫌いな言葉です)老人として描かれているのですが、必ずしもそんな人ばかりではないのです。

なぜか晴子の担当病棟にいる凄腕ハッカー爺集団の活躍により、高沢老人との交信や機械の暴徒化の鎮静を成し遂げるのです。

元気でお茶目で小憎らしく、物語に華を添え希望を与える重要な役割だと思いました。

そして彼らには楽しみがあり友人がいる。

老人といえど、あの時もまさに青春なのではないのでしょうか。

独居の高沢老人、病棟の老人集団。

年老いてより一層、人間関係というものが大切であることを知らしめる、二つの老人の過ごし方。

「老人」で括れば楽かもしれませんが、個々人はさまざまな経験を積み、さまざまな力を持って生きてきていることを忘れてはなりませんね。

 

そして最後の展開に笑ってしまった。

老人が作り出した、かぁちゃん(故人)の人格。

それはかぁちゃんの魂でもなんでもなく、高沢老人の中のかぁちゃん(故人)なのです。

かぁちゃん(故人)が「迎えに来る」と聞くと、人間では死生観や宗教観に重点を置くと思いますが、やはり機械は「迎えに来る(物理的)」なのです。

ここの目的(迎えに来る)に対する方法心理面含めて考慮していけるのはやはり人間であり、人間の医療に人間は必要だなぁと思いました。

あくまでやはり機械なのだな、と改めて知らしめたところで物語は終了。

 

やっぱり江口寿史の描く女の子は色っぽくて可愛い!

観て良かったと思いました。